こちらでもちょこっと触れていますが、文通村で出会った人の中には、プロフィールと手紙からうける印象が一致しなかったり、この人なんで文通村に入ったんだろう?って思うくらい会話の続かない人もいました。
見ようによっては上から目線のその態度に、最初こそ戸惑いましたが、彼らは、「受け身=謙虚は美徳」と考えている人なんだろうと思うことにしました。
このやりとりを通して、思い返される書籍があります。
自己紹介は相手のためのもの
表紙のインパクトに思わず手に取った、はあちゅうさんの著書『「自分」を仕事にする生き方』。
こんな記述があります。
自己紹介は相手のためのもの。
相手にとって、会話の糸口になるような親切な自己紹介を。
相手の情報がなければ、会話も続かず、苦しい。
つもりの謙遜は、不親切なだけ。
質問しない=あなたに興味がない、の表れ。
一緒の時間を過ごす上で、質問し合うのは、大人として最低限のマナー。※抜粋時に編集しています。
「自分」を仕事にする生き方
これを読んだとき、しばらく手が、思考が、停止しました。走馬灯の如く、今までの自分の振る舞いが思い起こされ、自分の態度の失礼さに押しつぶされました。
人見知りだろうと何だろうと、人とのかかわり合いの中でしか生きられないのだから、この努力はするべき…というはあちゅうさんの意見は、あまりにももっともすぎました。
はあちゅうさん、この時点の若さで、これを発信できていることがもう…。頭が上がりません。
振り返ってみれば、自己紹介を求められることを苦手に思っていました。言われたことはやるタイプなので、拒否するようなことはしませんが、積極的にどうこうは皆無でした。言われるまでは「待ち」の姿勢でおとなしくしていることが、正しいあり方とすら、考えていました。
それがまさか、自分には興味をもって欲しいと思っているのに、相手にはほとんど興味を持っていないことになるなど、想像だにしませんでした。し、ちやほやされたい願望の強さに比べ、相手への興味は少ないことがほとんどだったように思います。
自己紹介苦手は内省@クリフトストレングス、ちゃんと答えるは調和性@クリフトストレングス、興味をもってほしいは自我@クリフトストレングスってとこでしょうかねぇ。
あなたも私も、かまってちゃん
文通村はとくに、言語外会話(非言語コミュニケーション・ノンバーバル)がほとんどありません。文字や内容で伝わる空気感など、ほとんどヒントにもならない…。
書き手が自分語りをしてくれていればまだましです。それを拾えば会話に持ち込めます。最初のうちは、あれこれ私も質問して話題作りもしていたつもりです。でも、質問には答えるものの、私に対して何の話題(質問)も提供してこない人の、どこに興味=好意をもったらいいのかわかりません。
そのうち、この人なんなん?と思うようになってしまいました。
あ!暗にあなたとのやりとりはつまらないと言われていたのか?!
質問を返さない人々を見ていて、文通村は「かまってちゃん」が集まるところなんだなと気づきました。それはそのまま、私の入村の動機でもあったのです。かまってちゃんなのだから、かまってくれない人と続けられないのは、自然なこと。仕方ない。
文通村のコミュニケーションは特殊です。対面なら感じられる情報が皆無なことで、かまって欲しい感は、ストレートに伝わってきます。かまってほしいの深さや質は人それぞれですが、誰かとつながりたい人が集うシステムなので、そういう偏りがあっても不思議はありません。
そもそも人間は共感をほしがる生き物なんだそうです。「誰でもいい」と思って文通村に飛び込んでみたものの、結局求めているのは、「特定の誰か」との通じ合いであって、手紙のやりとりそのものじゃなかったんですよね。
文通村は、楽しい。私はかまわれたい。かまってほしいと思っている。だからこそ、全力で返します。出会ってくれた人、どうもありがとう!
追伸
必要最低限、多少の興味は示しなよ、という文句を、言いたくてこの記事を書き始めたのを、認めます。それはやっぱりマナーだと思います。
とはいえ、言葉を重ねれば重ねるほど、ただ単に、私に興味を示さなかったことを怒っている、だけに思えてきました。尊重されたかったんですね、私。勇気を出して、自分から出したんだものね、お手紙。万人と仲良くなれるわけじゃないんだから、文通村でそういうことがあっても不思議はないのよね。
深く考えるまでもなく、ただ単に、ご縁がなかっただけって話で十分。もう、私から手紙を出すことはないけれど、文通村での経験をくれて、どうもありがとうございました。