読む前から、どういう話なのかはわかっていた。
そういうポロモーションを数多く目にしていたから、読む前から、どういう話なのかはわかっていた。
それゆえに、発売された当初、手に取るのを躊躇った。
由佳さんの作品なのに。
どうしても購入に踏み切れなかった。
発売から一年近く経って、ようやく、図書館の順番が回ってきた。
書かなくてはならない理由があったとしたら
少し遠出する電車で読み始めた。
ああ、この人が死ぬんだな、とわかりながら読んでいくそれは、ただとにかくしんどいとしか言いようがない。
夢中で読み進め、うっかり乗り過ごしそうになりながら目的の駅で降りたものの、足取りは重く、強制的に本を閉じらされたこれを機に、読むのをやめようかと、本気で考えた。
そのときふと、とある漫画のセリフを思い出した。
私がやったことよりも、私がやらなくてはいけなかった理由に対して…
これを書かなくてはならない理由が、由佳さんにはあった…としたら…
読むのをためらった時、私はまず結論を先に読んでしまう。
読み進めるのを難しく感じる理由のひとつが、最終の目的地がわからないことなので、その不安を解消するためだ。
結論を知っていても、間を埋めるような読み方が楽しめるのは、射手座ならではらしい。
作者の意図に反すると、ひどくなじられたこともあるが、私は楽しく読めるのだから気にしない。無関心で手に取らない人に比べれば、よっぽどマシだと思う。
消せない怒りと、どう向き合えばいいのか
すると、あるセリフが目に止まった。
「わしら遺族いうのは、悲しさや怒りの大きさを、金額でしか表現できんのじゃけえ」
そうか、怒りの表現を描いているのか。これで気持ちが決まった。
ここへ向かう流れを見届けよう。
全体の、およそ半分を費やして、藤井健介くんが命を絶つまでが描かれる。
見届けようと思い直したとはいえ、そこが過ぎるまでは、やはりしんどいことに変わりはなかった。
それでもやっぱり。
村山由佳さんの、作品なのだ、これは。
最後の方で、伊東千秋さん(健介くんの恋人)が、自分がいかに人に恵まれていたのかに思いを巡らす場面がある。
どの時点でどういう人と出会わせるのかは、物語の、作者の都合でどうにでもなる。
その絵空事を差し引いても、健介くんのご両親と千秋さんの全力が引き寄せた人々だったのだろうと思わされるほどの熱量が、すでにそこには描かれていた。
出会うべくして出会う人は用意されている、そんな勇気が湧いた。
勇気…希望?もしくは願望か。そういう世の中であってほしい。
作品の背景を検索してみる
参考文献に、ある居酒屋チェーンで実際におきた過労自殺を検証した本があげられている。その居酒屋チェーンは、今でも街のあちこちにある。
今となっては、当時カリスマ経営者だった彼がメディアにでてくることもなくなった。
私は、その人の名前をうっすら覚えている程度だ。
当時の私は無関心だったので、これを機にこの事件について書かれているネットの記事をほんの少しだけ読んでみた。
『風は西から』の描写は、大げさでもなんでもなかった。
あまりにもびっくりして、元経営者のつぶやきを数回く読み直した。
フィクションではなく、ほぼノンフィクションだったんだ…。
そういうえば由佳さんは、現実とリンクさせてつむぐのがうまい人でした。
人生で初めて、現実と錯綜した物語
村山由佳さん、この作品を届けてくださって、ありがとうございました。
これを読んだ後、しばらく、現実社会でまさにこのニュースが報道されている日々の中に、自分がいるような気がして、「あの裁判どうなったんだっけ?」と思い出されることが度々ありました。本当に、生々しく、その温度がしばらく離れませんでした。
後になって知る「没頭」の状態を、初めて体験した瞬間でした。読み終えた数日後、電車を降りる時にふと錯乱したあの感覚は、今でも鮮明に思い出せます。
村山由佳さんの小説って、たぶんほとんどの場合で、すごく細かい情報が盛り込まれていて、勉強になるのが面白い。
今回の場合でいえば、労基署が過労自殺認定する過程とか。調停とは何か、裁判の意義、弁護士などの専門家に依頼することとか。
棚からぼたもち的に、知らずに知識が増えるのもまた見所のひとつ。
どんな内容を描いていても、ああ由佳さんぽいな、って思う一瞬の表現があったりして、それを探しては、にやりとする私。完全にマニアの域の自己満足な楽しみ方です。