敬愛する写真家の幡野さんの著書を一通り読んでみようとしているところで出会った、一節があります。
文章って、ただの日記じゃないかぎり、誰かが読むものなんです。時間を使って読んでもらうものなんです。贈り物のようなものだから、読みやすいものにすることがたいせつなことなの。わざと難しい文章を書く作家とかでないなら、自分の考えやおもいを綴りつつ、読んでくれる相手のことを、考えないといけないんです。
『他人の悩みはひとごと、自分の悩みはおおごと』幡野広志 p.221
例えばゲッターズの飯田さんがブログに書くとき、ほとんど推敲しないと明言していたのを目にしたとき。なんとなく受け取り続けていた、和のスピリチュアルな活動をされていた方が誤字脱字をいちいち指摘する人に言及していたとき。
私はなんとも形容しがたい違和感を拭えませんでした。
SNSの普及によって、多くの人が文章を表に出すようになって、私自身も多くの投稿を目にするようになっていって、そうするとどうしても目につくのが、誤字脱字です。
もちろん、私にもあります。専門の校正家さんがいてくれるわけでもありませんので、防ぎきれているとは言えません。でも、気にはなってしまうのです。
より多くの人が、平然と誤字脱字を垂れ流すので、誤字脱字にいちいち意義を唱える人の方が、揚げ足をとっているかのように見えてしまう構図もある。そうすると今度は、間違っていても当たり前の空気ができあがって、読む側が受け流すしかなくなっていく………。
読みやすいものにすることに、頭や時間や心をかけない人は、日々の言動にもそれが透けて見えます。
誤字脱字が発生してしまうのは止めようがない。どんなに推敲を重ねても見逃してしまうこともある。でもその行為に時間や心がかけられているかは、その前後でなんとなく感じてしまう。見えているんですよ。
仕事で多くのやりとりが発生する人々の中でも、常に当たり前のように誤字を垂れ流す人がいます。1回でも読み直せば見つかりそうなものなのに、自分の書いた文章を読み返すことなく送信するなんてこと、よくできるなと驚きます。
そうして垂れ流す人ほど、彼らの発する言葉の冷たさに、毎回心が削られる思いです。
当人たちにこの、幡野さんの解説が届くことはないだろうし、届いたところで響きもしないんだろう。いやむしろ、自分は心を込めているって思っていそうだ。
以前、どの本だったか、西野亮廣さんがその著書の中で、「文字を送るのが有料だったら、わざわざお金をかけて相手に文句なんて伝えないだろう。伝えるなら、愛だろう」みたいなことを言ってて。
それは確かにそうだなぁと思ったことを思い出します。有料だろうが無料だろうが、読んでくれる人がいるから書く理由があるということを、改めて肝に銘じなくてはと思いました。
文章は、贈り物。
どうか、多くの方にこの考えが浸透しますように。
